リベラルアーツ

自助、共助、公助

まいど、パパ寿郎です。

「自助、共助、公助」 昨年政策理念で話題にもなった言葉です。まずは自助であるべき、というのは正しいと思いますが取らえ方は人それぞれで「政府の役割を放棄すなよ!」という風に捉えられた感は否めないですね。今日はこの言葉の元々の意味と自分の理解・対策について、の考えを書いてみたいと思います。

元々の意味

この言葉は、1990年代から登場し始めた言葉のようですが、主に自然災害に関連した言葉として使われてきたようです。災害におけるそれぞれの言葉の意味は以下の通りです。

自助 : 自分の命と財産等を守るために、自分で防災に取り組むこと
共助 : 災害に関連して、近所や地域の方々と助け合うこと
公助 : 市町村をはじめ警察・消防等による公的な支援

とのことです。これはしっくり来ますよね。まずは自分の身は自分で守って、それでダメなら周囲と助け合っていきましょう、それでもダメなら警察や消防などの公的な機関が助けにいって国民を助けます、という順番です。もし、これが公助が最初なら下手すると凄い監視社会のようにも取れますし、まずそもそも身の危険があったら本能的に逃げますよね。その為に、準備しておきましょう、ということです。

社会のデザインとしての意味

これを社会保障やもう少し広く社会全体のデザインに対して使うと、以下のような意味になろうかと思います。

自助 : 自分の生活を守るために、自分でしっかり働いて蓄えを作ること(労働、投資)
共助 : 働けない、病気、介護が必要となった人を守るために保険で対応すること(保険)
公助 : 共助から漏れてしまった方々を守るためのセーフティネット(税金)

これが、元々某総理が伝えたかった意味合いと理解しました。

こう考えるとやはり、生きて行く上でまず自助だという風には理解できます。自分の生活を守るために、まずは労働と投資(資産運用)で自分の人生を乗り切れるように準備していこう、ということです。

この考え方に関する感想

最初は、結局どれも自分がまずは払っとるやないかい!と思いましたが、共助や公助はお金が集まることによって、新たなサービスに代わり、社会に提供されるという点では個人では出来ないことが多く、集合体としての力を発揮しますね。デザインとしての考え方には賛成です。

このように考えると、老後問題2,000万円問題等もまずは自助で考えるべき問題である、というのは正しそうです。人口が増える世の中では保険料が十分なので共助が成り立っていたわけで、誰が何と言おうとこれからの日本社会は人口が減っていくので、現役世代の保険料で高齢者を賄う保険金(年金)が減っていくのは自明ですね。もちろん、自分が払っていた金額より少なくしかもらえない、というのは不公平感がありますが、それは制度の問題か、と。

あ、病気やケガ等思いがけないことで自助の生活が出来なくなった人には手厚くあるべきです。そもそも保険の目的はそういうものなので。

例えば会社を一つの社会と見た時に終身雇用、福利厚生、福祉会、手厚い退職金等が共助や公助に当てはまろうかと思いますが、これも会社が右肩上がりになっていた時代には成り立っていても、会社の事情が変われば、会社の制度も変わっていくべき、という事が言えるかと思います。

自分なりの理解、対策

一方で、これら社会構造の問題や会社というのは一個人で変えられるものではなく、強いリーダーの存在が重要と思いますが、それだけに頼るのはやはり他責ですので、基本に立ち返り自助で防衛していくしかないといけない、と自分なりに理解しています。国や会社は守ってくれない、という前提に立つことが必要そうです。そんな会社の為に奉公すんのもどうかな、と思いますが、やはりそのために自分で最低限生活出来る為のスキルを磨いておくことが必要となっていきますね。

サラリーマンの自助の具体例は投資や副業があると思いますが、労働をして、残った手元資金で運用をして、複利でお金を殖やして行く、ということですね。自助を後押しする為にNISAやiDeCoという制度を国が設定されているわけです。ここまでは良いです。

ただ、僕は子供が3人いて人口減には貢献(むしろもっと厚遇されるべき!)しているはずなのに、なに子育て支援に所得制限設けようとしてんねん!という矛盾は無茶苦茶感じますけどね。こういう矛盾は国に不信感を募らせる原因にはなりますよね。結局人口を増やして国力を上げよう、なんていうことは全く思ってないですよね。

また、会社という視点では社員を守れなくなっている原因は会社が利益を出せなくなったからであり、それは相対的に以前より競争力が落ちているからです。これは、決して現場で働く社員の問題だけではありませんが「会社の制度に文句を言うのではなく、利益を出すために頑張って働こう。」と、これもサラリーマンとして立派な自助の考え方と僕は思います。

こういう想いを持った社員に、労働基準法などで労働時間の上限を管理するなんて全くナンセンスでただの足かせです。もちろん、過労問題や違法労働という問題があって対策するのは分かりますし、労働時間内に結果を出すことも重要ですし生産性向上は必須です。でも、会社の組織って大体そうなってないですよね。どんどん新しいルールが出来てそのルールを理解することに時間を取られ、もはや覚えられない。笑 そして新しいことをやるスピード感が損なわれていく。。。

これもある意味矛盾したことかなぁ、と思っています。そう考えると社会も会社も共助、公助の仕組みが自助をしっかりサポートする機能を果たしていない、という側面が往々にしてあるような気がしてきました。そのくせ、自助でやれ!ってのはちょっと如何かなと。

これらの、対策としては①共助、公助を変えられる立場になる、②自助で自分及び自分の家族がしっかりと生活出来るように自衛する。となります。

①を達成するにはかなりの時間と労力を要し、その頃には色んなシガラミで結局大きなことが出来なくなる。そしたら②を選択して、楽しく生きる方がメリットが大きいように思えてきます。ただ、②で生きていけるようにするには自分に信用と最低限のスキル、お金が必要でそれはサラリーマンで身につくようになるのか、という不安があります。自助だけで生きていける自信。それが究極の対策です。

結局僕がブログを書き始めた時に感じていた「漠然とした不安」も、こういう矛盾を無意識下で感じることが増えてきたからなんですね。全く文章力が上がらないですが、ただ漠然としていた数か月前よりは色んなことが繋がってきたように感じます。

まとめ

今日は、コロナ禍以降何かと聞くことが多い自助、共助、公助について考えてみました。色々と思うことはありますが、基本は自助であるべき、ということについては賛成です。そして、何にも左右されず楽しく生きる究極の対策は「自助のみで生きていける自信とスキル」なんだと改めて思いました。正にリベラルアーツ山の頂上ですね。笑

この記事を読んで、少しでも参考になれば嬉しいです。

ほなまた。